「行ってきます!」
「ちょっと。また今日も朝ご飯食べなないの?昨日の夜も、ほとんど食べてないじゃない」
「大丈夫、大丈夫。なんともないよ。じゃあ急ぐから」
そういうと彼女は家を飛びだして学校へと向かった。
高校生の娘は、近頃ろくにご飯を食べていない。
少し前まで大好きだったハンバーグを作っても、見向きもせずに部屋にこもって音楽ばかり聞いている。
主人もそうだ。
夜はどこかで食べて来ているのかもしれないが、朝ご飯、さらに、今までは毎日作ってくれとせがんでいたお弁当も、ここ1年で全くと言っていいほどリクエストされなくなってしまった。いったいどうなっているのやら。
うちで何かを食べるときと言えば―――食べるというより飲むだが―――通販で買ったらしい栄養ドリンクだけだ。娘も主人もハマっていて、それだけは毎日欠かさずに飲んで行く。
心配になって、病院に相談をしに行ったこともあるが、「特に目立った不調が現れなければ大丈夫」といわれておしまいだ。
それでも心配だと念を押すと、「オレンジ社の栄養ドリンクを飲んでいるんでしょう?あそこの商品はかなり評価が高いから、そんなに心配する必要はないですよ」とにこやかに追い出されてしまう。
オレンジ社とは、娘と主人がハマっている栄養ドリンクをつくっている食品会社だ。
私はよく知らないが、その栄養ドリンクをメインとして、インターネット上でかなり話題になっているらしい。
そういうわけで、しばらくの間、彼らを放っておくことに決めたのだが、1年くらいたっても、状況はほとんど変わらないままだ。
今日は、近所に住む友人とカフェに行く約束をしていた。
このことを他の人に話すのはあまり気がのらなかったが、この際やむを得ないので、私は話すつもりでいた。
タイミングを見計らっていた時、友人がふと鞄から何かを取り出す。
「あ。それ」
「え?知ってる?」
彼女が持っていたのは、オレンジ社の栄養ドリンクだった。
「これすごくいいのよ。おいしいし、お肌にもいいみたい」
そう言って嬉しそうにドリンクを飲む友人を見て、私は途方にくれた。
まるで、自分以外のみんなが別の国にいってしまったような感覚で、怖くなって、私はその場から逃げだしてしまった。どうすればいいのだろうか・・・。
「それにしてもうまくいきましたね」
「ああ。やはりこの計画は完璧だった」
その頃、あるプログラマー2人が嬉しそうに話していた。
「こんなにスマートなやり方があるとは思いもしませんでした。さすがです」
「なに。君の技術があってこそできた話さ。これからも上手くやっていこうじゃないか」
この2人こそが、オレンジ社の創業者であり、”栄養ドリンク”の仕掛け人でもあった。
「まさか起業1年でこれほど大きなビジネスになるとは」
「当然だ。今の時代、インターネットで音楽を聞かないやつらの方が少数派だ」
「違法ダウンロードされている音楽・映像コンテンツ、そのすべてに、特殊な電磁波を発するウイルスを取り付ける。ダウンロードしようものなら、PCもろとも徐々に浸食して、ユーザーの脳波、つまり考え方そのものを洗脳してしまう。・・・何度繰り返してもぞくぞくします」
「はは」
「あの"栄養ドリンク"、あれがただの”トマトジュース”だなんて、誰も思わないでしょうね」
「そうだな。いかなるコンテンツもネット上で手に入ってしまうその利便性に慣れたユーザーは、食事でさえも簡略化し得るということだ」
「これこそ完成されたターゲットマーケティングですよね。もちろん、洗脳ありきですが」
「感謝しているよ」
「こちらこそ」
「ところで、どこか飲みにでも行かないか」
「いえ、せっかくなんですが、今日は妻とゆっくりします」
「そうか。幸せそうでいいな」
「これ、何本かもらって行ってもいいですか?」
そう言うと彼は"トマトジュース"を指さす。
「いくらでも持って行くといい」
「よかった。では、また今度飲み行きましょう。お疲れさまでした」
「ああ。おつかれ」
にやりと笑う男の心中が、まだ彼にはわかっていなかった。
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